観音清浄心 [社寺]
5日早朝に清水寺へうらぼん法話にいきました。
このうらぼん法話は、今年で96回目。
せめて100回目ぐらいまで参加したいな。
早朝から話を聞くのはいいものです。
以下は森清範貫主の法話を聞いた時の私のノート。
お役に立てたら幸いです。
◆牛若丸と弁慶は、五条大橋で出会っていない?
『義経記』によると牛若丸と弁慶が刀を取りあったのは、実は五条大橋ではなく清水観音つまり清水寺の舞台付近だったそうです。
たしかに当時は、現在の位置に五条大橋はなくて、いまの松原橋のあたりに小さい橋があった。その辺りという説もあります。
◆観音ってなに?
観世音菩薩→法華経
観自在菩薩→般若心経
自由自在に世音を観ることができる菩薩様という意味。
観自在菩薩→観世音→観音と略した。
「音」を「観る」と訳す。
「音」というのは何か?私を取り巻く環境一切をいう。「世音(せおん)」
「観」というのは「私」ということ。「主観」と「客観」ということ。
「私が周りの音を観る。
自由自在に観ることができるのが観音様。
ところが我々人間は、なかなか自由自在に観ることができない。観る方と観られる方、主観(主体)と客観(客体)が一つになった時に初めて心が通じるものが出てくる。これができてはじめて観音さんになる。
我々はなかなか「世音」を自由に観られない。だから観音になかなかなれない。
↑写真は、桂米朝さんと森清範貫主。米朝さんが『はてなの茶碗』を演じられた時の写真。お二人とも若い!
◆同時
道元禅師は、「同時(どうじ)」という言葉を使っておられる。
禅でいう「隻手音声(せきしゅおんじょう)」というのもこの問題。
江戸時代におられた白隠禅師が「片手の声を聞け」といわれた。
これは難問題。
両手を打てば音が出るけど、片手の音を聞けとは?
三人の在家のお弟子さんがおられた。
その三人が「白隠の片手の声を聞くよりも、両手叩いて商いせい」といわはった。
それを聞いた白隠さんは「両手叩いて商いがなるならば、片手の声は聞くにおよばん」といわはった。
つまり商いが成立する時、「片手の声」を聞いているということ。
音というのは右手と左手が合わんと音はでません。商売でいうたら売る人と買う人が心が一つになった時に手打ちをしやはる。売りましょ、買いましょと。
主観と客観が一体になる。とのことを慈愛とおっしゃっているのです。
これはなかなか口で言って、そう簡単になるものではない。相手さんの立場、気持ちになるということはなかなかできない。
相手さんの気持ちになるということ→慈愛
↑図は『義経記』牛若丸と弁慶は清水寺の舞台で出会った?
◆慈悲心
人間の奥深くには純粋なものがある。
小学生1年生の女の子の詩を見つけた。
こんな詩です。
「うちのお母さんはやさしい、いっぺんも怒らはったことがない。うちのお母さんは怒らはるかわりに涙をながさはる。涙を流さはるお母さんが一番怖い」
このお嬢ちゃんとお母さんがピタッとひとつになったはる。
我々の奥深くには、純粋な、清浄な心というものがある。
それ純粋は部分を宗教の方でいうと、
慈悲心という仏さまの心のことです。
◆「慈悲」と「愛」
仏教は「慈悲」と「愛」と分けている。
「愛」というのは、人間の世界ということです。親子の愛情、兄弟の愛情、家族の愛情。愛というのは、私が中心になるのです。私の親、私の子供、私の孫。「私の」というのが入るのが「愛」の中にはいる。
「私」というのは、なかなかやっかいなものです。ただし「私」がなかったらこの世は生きていけません。いいとか悪いとかじゃなく、自然なことなんです。
「私」をもっていると角が出てくる。般若の面というのをご存じでしょ。あの姿は、仏さんから見た私たちの姿。角を突き合わせるから揉めごとが起こるのです。
◆住職の遺言
ある大きなお寺で老師が亡くなる寸前に「ワシが死んだらこのお寺はまたもめるやろ」ということで老師が一筆を書き、箱に入れ「これを本堂の下に置いておくさかい、もし困ることがあったらこれを開けて見よ。かならず難問は解決」とおっしゃった。
そしてその老師が亡くなって、案の定揉めた。
これはどうしようもない。あの箱を開けようということになった。
そおっと本堂のしたからその箱をもってきて、うやうやしく箱を開けたら紙がかいてあった。「なるようにしかならん」と。
「迷うった時は、元に帰れ、原点に帰れ」とこう書いてあった。
↑仏さんから人間を見ると角がでてまっせ
◆我々の心の深くにもれなく存在する仏様
純粋な赤ちゃんのような仏心、これは大乗仏教でいうとみんなそういう純粋なものがあると考える。相手を思いやる、やさしい慈悲心が潜んでおる。
天台→「本覚」
法華経→「一乗」
密教→「胎蔵界」
華厳経→「蓮華」
法相宗→「心性」
禅宗→「見性成仏」
◆清浄心は鏡のようなもの
我々の心の奥底にある清浄心は鏡のようなものといわれる。
鏡は前に置かれたものをそのまま映す。そのかわりその景色が消えたら即消える。そういう清浄な、鏡のような心が人間の心性。
熱いものを映して鏡が熱くなるかというとそうでない。京男のように綺麗なものを映しても鏡は綺麗にならない。汚いものを映しても鏡は汚れない。
般若心経でいう「不垢不浄 不増不減」
心は、人の悲しみがそのまま心に映る、人の喜びが素直に心に映る。こういう純粋な仏心というものに、我々は気づいていきましょうというのが清浄心というもの。
↑法話が終わるとお供養(アンパンとメロンパン、それに牛乳)がもらえます
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京男さん、おはようございます^^
慈愛と自愛は違いますモンね、どうも最近は自愛の方が目立って生きてる様な気がする…
今またリセットして慈愛に満ちた生活をしなくてはいけませんね。
京男さん、こちらの法話のCD聴きましたよ!
しかも主人の実家に帰る美山までの道中で(笑)
法話なんですが笑って聴きながら帰りました。
人の心を飽きさせない素晴らしい話術ですよね。
京男さん、今度誘って下さい、私もメロンパン食べたい♪
by mayu (2011-08-07 05:46)
>mayuさん、おはようございます。
自分というのはコントロールが難しいですね。
楽にいきるためには、その私とうまくつきあわないとね。
そうなんだ。録音をおききになったのね。
いいでしょ。難しいないようをわかりやすく、面白くお話しになるのがいいですね。来年はお声をかけますね。
by 京男 (2011-08-07 05:57)
おはようございます!
今年もうらぼん法話の時期になったのですね。
昨年のCDを聞かせてもらいました。
面白おかしく話をされるのが良かったです。
最後のパンと牛乳って言うのも面白いですね^^
by guran (2011-08-07 08:04)
>guranさん、おはようございます
早朝の清水寺はいいですよ。本来の顔はこんな感じなんだろうな。
9時以降の観光の顔とは違うんですよ。
それを感じるだけでも値打ち。
パンと牛乳がいいんですよ。これがまた。(笑)
来年はお声をおかけします。
by 京男 (2011-08-07 08:20)
こんにちは
残念、そのひと言です。来年、挑戦します。
慈悲心のところの娘さんとお母さんのお話・・・・お母さんの涙確かにげんこつよりも怖いですね。
by すー (2011-08-07 10:40)
>すーさん、こんにちは
残念でしたね。来年は一緒に行きましょう。guranさんやmayuさんたちも参加するとおっしゃっています。
みんなに行きましょう。早朝の清水寺はいいですよ。
人の心は難しいものですね。
by 京男 (2011-08-07 11:40)
京男さん こんばんは
管主様の良いお話を代わりに聞いて
下さってありがとうございます。
いいお話だわ~~。最近、こういうお話が
好きです。胸にしみます。
それは年を重ねた、人生が長くなって
少し味が分かってきたせいでしょうか。
by pomme (2011-08-07 22:07)
>pommeさん、おはようございます
こういう話は、たしかに年齢を重ねるほど心にしみるようになりますね。だとしたら年齢を重ねるのも悪くない。
若くてもいいと思える人が増えるといい世の中になるだろうな。
by 京男 (2011-08-08 04:17)
京男さん、こんばんは。
よいお話をありがとうございます。お供養がアンパンとメロンパンと牛乳とは意外です。はいからですね。
by さちこ (2011-08-09 00:18)
>さちこさん、おはようございます。
私用のノートですみません。お役に立てれば幸いです。
寄附をされる方がおられるのです。朝粥という訳にもいかんでしょうしね。(笑)
by 京男 (2011-08-09 04:48)