だん王? [社寺]
↑檀王法林寺
本日は、25日の続きです。
何が続きかというと篠田屋の隣のお寺だからです。
名前が不思議。「だん王」という名前の寺。
「だん王」って何?
調べるとお寺の由来に関係するらしいのです。
お寺のホームページに書いてあるので引用させていただきます。
◆檀王法林寺の前身悟真寺
檀王法林寺は正式名称を「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺」(ちょうようざん せんだんのういん むじょうほうりんじ)といい、その歴史は望西楼了恵(ぼうせいろうりょうえ)上人(1243-1322)の悟真寺(ごしんじ)創建にはじまります。
了恵上人は浄土宗三条派の派祖となり、亀山天皇の帰依を受けて「朝陽山」の山号を賜り、文永9年(1272)に悟真寺を三条の地に建立しました。この地で宗祖法然上人の浄土の真義を伝えるなど、専修念仏の布教につとめられ、法然上人の教義をまとめた「黒谷上人語灯録」を著しました。
上人は元徳2年(1330)88歳で入寂されましたが、このとき後醍醐天皇より「広済和尚」の号を与えられました。
その後、悟真寺は応仁の乱をはじめ、度重なる天災人災の被害を受け、永禄年間(1558‐69)に焼失したと伝えられています。
↑鳥之供養塔、古いものではないらしい。昭和31年に京都食鳥組合が作ったそうです。京都市内では、かしわ屋さんが多かった。鶏はよく食べられていましたからね。
◆開山袋中良定上人
この悟真寺の縁地に新しく檀王法林寺を築いたのが袋中(たいちゅう)上人です。
上人は天文21年(1552)磐城国(現在の福島県いわき市)にお生まれになり、14歳で出家し「袋中良定」と称するようになりました。上人はさまざまな地で修学に励み、若き頃より学僧と知られ浄土宗の教えをことごとく相伝されました。
慶長7年(1602)、51歳の時に明(当時の中国)へ渡ろうと決意しましたがかなわず、翌8年から3年間琉球国に留まることになりました。
↑本堂
帰国後、慶長16年(1611)京都に入り、了恵上人が開いた念仏道場の縁地(悟真寺)に草庵を建立し、「朝陽山 栴檀王院 無上法林寺」と名づけました。檀王法林寺において上人は、浄土念仏の教化につとめ著述に没頭された一方で、寺域を拡張し寺院の基盤を固められました。
そして元和5年(1619)、住持すること9年にして上人は、「法林寺什物帖」を弟子の團王(だんのう)上人に書き残し、寺を譲って東山五条坂に袋中庵を創建し移り住まわれました。
◆「だんのうさん」の由来
そのあとを継いだ團王上人は寺院興隆に尽力され、恵心僧都作と伝えられる阿弥陀如来立像を本尊(現在の御本尊)として阿弥陀堂(本堂)を建立し、寺域も現在の広さにまで拡大させていきました。
團王上人は人徳も厚く町衆信者との交流を深められましたので、当寺は庶民から「だんのうさん」と親しみを込めて呼ばれるようになったのが、「だんのう」という名称の由来です。
ここは、当然、小さい時から知っています。
小学校ぐらいの時に遊びにきていますからね。
当時から幼稚園がありました。
↑京男の和菓子本が新装版になりました。初版を出版した2013年1月26日時の記事と新装版が出版した2018年1月19日の記事をご覧ください。
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